あそびとくらす

遊びと暮らす 遊人クラス 日常の中にちょっとした遊び&スパイスを。日常の中からちょっとした学びを。

移住→田舎の小学校 授業編 給食はとってきた松茸ご飯 父との思い出③

父がしてくれたことで

大人になってから気がついたことの1つが

学校と地域を結んでくれたんだなぁってこと。

 

○秋には松茸狩りと松茸ご飯♪

記憶にあるのが小学3、4年以降のこと。

秋になって

小学校の保有林?に向かうと

「ここは○○小学校の児童が松茸狩りに来ます。

楽しみにしていますので、とらないでおいてください」

と立て看板があって、

実際、土から顔を出したり、

傘が開いてみるからに松茸!!とわかるものがゴロゴロ生えていた。

わ〜い!!

皆が一斉に、松茸をとり漁り

学校へ持ち帰り、廊下に並べ

好きなのを○本持って帰っていいよ。と。

お気に入り(大体は自分で見つけたものを持ち帰るものが多かった)

を選んだ後、

その日の給食は

松茸ご飯と松茸の吸い物になっていた。

 

え?これってみんなしていたことじゃないの?

後から知った。

 

○自分たちで育てた餅米で正月には地域の人と餅をついて食べる。

学校の田んぼがあって、

毎年、田植え、稲刈り、餅つきをしていた。

ええ、今思えば、誰が

草刈りや草取り、脱穀してくれてたんでしょうね?

(皆のお父さんやお母さんだったんだなぁと。)

 

田植えは、昔ながらのロープに等間隔の印をつけたものを

両端の先生がずらしていくのに合わせて田植え。

毎年、泥の感触が、コケる子がいるのが楽しかった。

 

稲刈りも鎌で。

今思えば、1年生から6年まで皆

鎌を持たせてもらえていた。

危ないからさせない、なんて声はなかったんだろうか。

ちょろっと怪我をする子はいたけど

怪我をした子は翌年には怪我をしない。

刈った稲は、ハザ掛けをして、つまり天日干しだ。

おいしく乾くのを待った。

これまた思い出してみれば、ハザ掛けの準備は父たちがしていたし

稲刈りの時も毎年、父がいた。

 

正月には

地域の保護者だけでなく

地域の方(奥様方)も学校に来て

餅米を竈門で蒸して、

石臼でついていた。

子どもたちは、杵で餅をついたり、つきあがった餅を丸めたり。

記憶では、

よもぎ餅もある年もあったし

毎年あんこは炊いてあって、

ぜんざいにして食べていた。

土曜日だったか、平日だったか覚えがないけど

餅つきの時は

地域の人たちが結構来ていて

炊き出しもしてくれていたように思う。

今思えば、防災訓練の一つみたいなものだったのだろうか。

 

え?これってみんなしていたことじゃないの?

後から知った。

 

○運動会は紅白対決。地域のおばあちゃんは赤、おじいちゃんは白。

運動会も、全校20名以下。

そりゃ全員全種目出るでしょう?

リレーは全校リレーだし

障害物競走も、全校対決だし

綱引きも、器械体操も、パレードも全部が全部、全校生徒だ。

中学になって、自分が出ない種目があるの??とびっくりし

高校生になったら、出る種目が1、2個しかなくてびっくりした。

ちなみに、小学校ではほぼ全部の種目に出るけど

出れないものが2つあった。

1つは、園児のリレー。

地域の保育園児(幼稚園はない)がお菓子に向かってひた走る。

もう、可愛さしかない。

 

2つ目は、老人クラブ?の玉入れ。

地域のおじいちゃんが白、おばあちゃんが赤に分かれて

玉を入れる。

え??

そりゃ、外で体を動かしているおじいちゃんの方が玉、多く入るやん?!

不公平やん??

と思いきや、おばあちゃんたちの方が人数多かったりして

意外と毎年、点数が違う。

そう、この演技、児童は1人も出ないのに、

紅白対決に加点されるのだ。

 

え?これってみんなしていたことじゃないの?

後から知った。

 

○夏には子ども神輿があって、結構本気

事前に神輿を飾るところから、

練り歩いて神社に奉納するまで

1km、2km、2kmくらい離れたところから子供が通うので

途中は軽トラが神輿を運んで、子どもは歩いて追いついていたような…

神社でジュースとおやつが出るのが

その後の祭りと神楽が楽しかった。

 

 

○毎月、小学校便りがあって、

それを帰り道みち、一軒一軒お邪魔して手渡ししていた。

私の帰り道には4軒。

途中のみかちゃんちまでは5軒くらい。

ピンポーンと押して、大体おじいちゃんかおばあちゃんがいるんだけど

いない時は、玄関を開けて置いておく。

今はどこも鍵がかかっているけど

昔はどこの家も鍵がかかっていなかったの。

持って行ったついでにお話ししたり

これまたどんな人が住んでいるかわかるし

楽しかった。

 

え?これってみんなしていたことじゃないの?

後から知った。

 

 

○春には山菜とり&秋には栗拾い

春に、1度だけ、蕨取りに来たことがある。

そう、来た のだ。

じいちゃんの山に、みんなで蕨取りに行った。

きっかけは覚えていない…。

同じく栗拾いも1、2度。

授業で、

くりを拾ったことがないという子がいて

「うちにあるよ。じーちゃんの山がある。あ、今度学校のみんなで来たらいい」

松茸狩り同じ感覚で私は言った。

その後、どうやって話が進んだかは知らないが

全校生徒だったか、

2クラスでだったか

栗拾いが実現した。

じーちゃんの山で栗拾いができたのが、私はなんだか誇らしかった

のをうっすら覚えている。

栗ご飯は拾った栗だったのかなぁ…。

 

○敬老や勤労感謝の日の前後には

地域の人が来て

手紙を渡したり

昔の遊びを教えてもらったり

竹とんぼや水鉄砲を作ったり

結構、地域の一人暮らしのおじいちゃんおばあちゃんの存在も知っていた。

 

 

父の働きを知ったのはだいぶ経ってからで

小学生の当時は小学校ってそんなもの、

当たり前だと思っていた。

よく思い出してみると姉が入学当初からあったものは少なくて

(姉の小学校入学を機に移住していたから)

子ども神輿や、夏祭りと盆踊りも

徐々に、だんだんと地域とのつながり行事も増えていたのだと思う。

もちろん、父だけの働きではなくて

同じ頃、子どもを通わせている親たちと学校が協力したからこそ

実現していったのだと思う。

 

家ではそんなに話すことのない父だったけど

移住したのも、もしかしたら

子どもたちに、

残したいものや伝えたいもの

父なりの理想があったのかもしれない。

じゃないと、こんなにできないよね。

 

母になった今なら

それらがどれだけ

根気のいることだったか分かる。

子どもの学校で、

行事として米を育ててみるのはどう?

と提案しても

安全面、誰が管理するのか、費用などなど

できない理由はいくらでも出てくるし

そんな保護者を納得させながら協力してもらって

学校全体で取り組む

なんて、なかなかできることではない。

 

今思えば、

牛の世話と田んぼがない時は

クーラーのついた部屋で寝てばかり

ではなかったんやなぁ。。。

 

ありがとう。