あそびとくらす

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移住→田舎の小学校 授業編 卒業証書は手漉き和紙 父との思い出②

父との思い出・・・

父がしてくれた(私にとっての)最良の決断を出すとしたら

移住 だろう。

 

当時は全くそんなこと

=仕事と生活様式をガラリと変えること

に勇気がいるなんて考えたこともなく

当たり前のように田舎生活が始まったのだが、

今の自分と照らし合わせてみると、

なんと勇気のいることか!

よくぞ決断してくれたと思う。

 

ちなみに父は約50年前の広島で一軒家を借りて外国の女の人とシェアハウスをしていたらしい?!

父が亡くなった後に知った。

イカラだよね。

 

その頃まだ少なかった航空写真会社の営業部長?だったらしい父と

マツダの広報部をやめた母が会計専門学校で出会ったらしい。

何も知らなかった中学生の私は

母さんはそこそこ美人で頭の回転も早そうなのに

どうしてマツダの花形の広報部をやめて、保険会社に入ったのか

せめて、その広報部の中の賢い人と結婚していてくれたら

こんな貧乏暮らしではなかったんじゃないか?

とおどけて話したことがある。

そしたら母も、

そうしたら、あなたは産まれてないわよ? 笑 と。

その広報部には、東大とか京大とか早稲田とか賢い人ばかりで

私はせっかく入ったのに

好きでもない車(なぜ選んだ?)の記事をたくさんの新聞から探してきて

スクラップブックを作るだけだったのが

本当に自分は馬鹿なんだな・・・と思えてたら悲しくてやめちゃったのよね〜

とおどけて答えた。

 

さて、結婚した2人は子どもが3人産まれた時に考えた。

このまま街で暮らそうか?

田舎に帰ろうか?

今ならわかる、その選択がどれだけ

大きな選択だったか。

 

3歳だった私が覚えているのは

街の幼稚園や家も結構楽しかったけど

引っ越ししたら、おうちが新しくなったこと。

新しい家では、暖炉をレンガを組み立てながら父さんと作ったこと。

初めての田舎の保育所に向かうバスの中

大泣きする弟をトントンしながら私もとっても不安だったこと。

 

さて、慣れてしまえばそこが都になるもので

私は保育所が大好きになった。

父方の祖父も祖母も大好きになった。

父は、

農業大学校へ通ったり

牛の世話や、新規就農者として色々出かけたり

アルバイトに出かけたり

母は、免許がないのに広島へ通勤することになったから

確か朝5時半には家を出て22過ぎに帰宅(しかもその頃は土曜も出勤)

父や母と過ごす時間は減ったけど

その分、祖父母や地域の人や友達と過ごす時間が増えて

かなり楽しい、保育所・小学校生活を送った。

 

そう、今思えば、めちゃくちゃ楽しい小学校だった。

全校生徒12人〜19人(私の記憶で)

我が家、三人兄弟で、その時親戚の兄弟も3人いたから

え?約半数が兄弟親戚…? 笑

 

もちろん複式学級だ。

私は1人で入学し

途中転校生が来たから2人で卒業した。

複式のいいところは

国語・算数は上や下の学年の内容も盗み聞きできるってところ。

分からない〜って思ったら

それはこうやるんだよ、なんて先生の代わりに教えようとしたり 笑

社会や理科は1年おきにどちらかを学んでいたり。

先生が来るまでまったり、お絵描きしたり、結構自由な時間もあった。

 

最高なのは、

分からないところはかなりの時間をとって

分かるところはビュンビュン進んで行けることだ。

 

一例をあげよう。

○国語?理科?

小学2年の時に、国語で「タンポポの根は3メートル以上ある」という説明文を読んだ。

朝だ。確か1時間目だった。

「そんなの信じられない」 と言った私に

教頭先生は

「じゃ、確かめに行きたい?」と魅力的なオファーをくれた。

「もちろん♪」

行くだろう?

その後は、国語の時間のはずだけど

延々と裏の庭でタンポポの根を掘っていた。

途中、教頭先生が

「ごめんね、先生他のお仕事があるから1人でも掘れる?」

みたいなことを聞いてくれた気がするが

私は聞いちゃいねぇ。

適当にうなづいて

目の前の、すぐに根が見えるはずのタンポポに食らい付いていた。

すぐに見えるはずなのに、

掘れどもほれども、根の先が見えない。

いい加減疲れてきたところ

教頭先生が戻ってきた

「そろそろ、給食の時間だけど〜〜」

え?

と思ったらチャイムがなった。

「どうする?もっと掘りたい?もういい?」

疲れた私は根を定規ではかりとった。

確か90センチくらいあったと思う。

「こんなに太くて90センチなら、もっともっと細くなって3メートルくらいあるかもしれん」

確かめることができた!

と満足し、給食にかけて行った。

 

○皆が小学校の算数でつまづくのが

(おい、本当か?)

分数の割り算

およそ99%の子どもが分数の割り算でつまづく。

*ほんごうリカ主観による身近な人調べデータより*

だって、おかしくないか?

割り算 って始めるのに

掛け算になっている。

は???なら最初から分数の“掛け算“で良くね?

思うに、最初に“分数の割り算“と伝えるのではなく

こんな問題ならどうやってとくかな〜?くらいに始めたら

もう少し誤解が解けるだろう。

それにしても、

割りたいのに “かける“ 意味がわからない…

それまで、算数も国語も簡単すぎて、スイスイ飛ばしていたのに

(あ、嘘ついた。国語は、授業のたびに横道に逸れてたんだった)

初めての壁!

やり方はわかるが、

“なぜ、割り算なのに、かけるのかがわからない。“

納得できないから進めない。分かったことにしたくない。

 

今思えば、ここで、すい〜っと進める子は

素直な子なんだろう。

私はちょっと、いや、だいぶひねくれている。

物事も斜めに、いやむしろ、後ろからも見てみたい性質なのだ。

大人になるにつれて、それでは自分が生きにくいんんだな、と自覚し

素直そうな人の皮をかぶってはいるが

元来が、ちょっと斜めから、後ろから見てみたいタチなのだ。

 

しかし、その時ばかりはまっすぐ見ても

どう考えても

分数の割り算という割に、割り算ではなく掛け算だった。

真逆じゃないか。

 

「わかりません」

とうつむく私に、担任が説明し

1時間かかってもわからないと呟く私に

6年生のけんちゃんと、のりくんまでやってきて、

机の周りで絵を描いたり、数字を書いたり

クラス全員で(と言っても私以外3人:担任と2人の6年生)

あーでもない、こーでもないと説明してくれた。

この時点で、確か1時間半ほど使っていたと思う。

これぞ田舎のいいところ。

1時間ごとに区切られてはいるが臨機応変

終いには、校長だったか教頭までやってきて

説明し始めた。

 

一生懸命聞く私。

でも

「割り算やなくて、掛け算やん。どうしてかけないの?」

と思えば思うほど、納得できない。

納得できないけれど、

こんなにたくさんの人と時間を使ってもらっても

わからない自分が

本当に馬鹿に思えてきて・・・

 

 

泣き出してしまった…。

「今日はここまでにして、また今度考えてみよっか」

そう言われたのに、宿題には計算ドリルの分数の割り算が出ていた…。

家に帰った私は、

もう一度教科書を開いて1人で考えてみた。

(両親の帰宅は遅いし、相談する習慣もなかった)

さっぱりわからない。

さっぱりわからないなりに

解き方だけは分かったし、答えが出せることもわかった。

仕方ない、

わかったフリをしよう。

理解はできないけれど、問題を解くことはできる。

そうして、計算ドリルを済ませ、

翌日登校した。

 

○卒業証書は自分たちで育てたミツマタと楮で作った和紙だった。

私の地域には楮祖神社(紙の神様)が祀られていた。

江戸の3白だと思っていたら、毛利藩の三白政策(米・塩・紙)だったが

・どうして楮祖神社(紙の神様)が祀られているのか

→中内右馬之丞や、江戸時代の生活を調べ

・実際に、トロロアオイミツマタ、楮を育てて、


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・和紙を作るために、当時は和紙工場があったので社会見学に行って

和紙の作り方を教えてもらって(多分主に教頭先生が)

→学校でもわしを作り始めた。

何度も何度もグツグツやって、繊維からホワホワの和紙の元を作った。

そうして、ハガキ大や色紙大の和紙を作って練習し

(うろ覚えだけど、手漉き和紙の葉書は敬老の日に地域のおじいちゃんやおばあちゃんへ手紙を書くのに使ったと思う)

いよいよ最後に卒業証書を手漉き和紙で漉いた。

文字は全文、教頭先生と校長先生が書いてくださった。

 

ん?今思えば、これ、何年計画?!?!

神社を調べに行ったのは確か3、4年だったと記憶。

そう思ったら、3年計画くらいで

“自分で育てた植物で和紙を漉き、卒業証書を作る“

が進行していたんだな〜と思う。

すごいよ、先生たち。

そして、それができたのも

保護者が学校を信じて任せてくれてたから…?

教科書通りには進まないし(子どものせいで><)

社会見学や地域に出て行くことは多かったし

多分、教科書をカバーすることだけが大切

例えば、受験に出るから全部カバーしといてほしい

なんてことがなかったからかな。

ゆったりと、

気になったことを

そのばでみんなで考える、調べることができていたと思う。

例えば学校でうさぎも飼っていたけど、

ある時、うさぎが食べられていたことがある。

なんで?どうして?どうしたら防げる?

それだけで半日過ぎたと思う。

 

他にも地域と共同した学びの場がたくさんあって。 

それは長くなったのでまた次回。

 

恵まれた小学校生活だったと思う。

移住してくれて本当によかった。

と今は思う。

中高生時代は、早く田舎から出たくてしょうがなかったけど、ね